仕事中に、他の部署に書類を届けて承認をもらわなくてはならず、外に出たのだが、あまりの暑さと日差しに、自転車ではなく、社有車で行こうとキーを取りに戻るも、全車出払っている。しかし、上司専用の社有車は残っている。私は躊躇することなく、ベテランの女性社員に「車使いたいんだけれど・・・」と申し訳なさそうに言うと、私の意を汲み取ってくれて、すぐに使用許可をもらってくれる。「ありがたき幸せ」と、心の中で跪く私に「ロイヤルミルクティーが飲みた〜〜い」と、小娘のような甲高い声でおねだりされて「お前は無糖にしとけ!!!」と、おもわず声に出しそうになる、そんな私の日常は・・・、
今、私は日雇い仕事の疲れも忘れるくらいに、目の前の光景に釘づけになっている。
こんなにも面白いものをライブで見られるなんて、今日はツイている。
私にもう少し勇気があれば、この光景を動画に収めることができたのに・・・。
しかし、この光景をレンズ越しに見るのは勿体無いという気もする。
今の私の最大の関心は、この光景の結末を見届けることができるのかということだ。
乗換駅まで、時間にして約十五分。
急行に乗り遅れたことを、これほど感謝する日が来るなどおもいもよらなかった。
まだ、時間はある。
私は最後まで望みを捨てずに見届ける覚悟だ。
まぁ、何だったら、終点まで行ってもいい。
多少の遠回りにはなるが、ロスする時間はせいぜい二十分弱だ。
本当なら明日の日雇いに備えて、さっさと帰宅して寝るのが最善の策であることはわかっている。
今日も汗だくで、かなりの体力を消耗したし、疲労の蓄積は半端ないことになっている。
できれば、少しでも体を休めるべきだ。
しかし、六十年近く生きてきて、こんな偶然に出会ったのは初めてのことだ。
これを逃してしまえば、老いさき短い私の人生で二度とお目にかかることはないだろう。
それぐらい貴重な光景だ。
惜しむべきことに、この光景に気づいているのは私だけということだ。
隣の男性と若造はスマホに夢中で全く気づいていない。
ちょっと、
「肩トントン」
して教えてあげたい衝動に駆られるも、目の前から目が離せない。
ほんの一瞬の油断が一生の後悔に繋がりかねない。
「まさに真剣勝負だ」
決定的瞬間を逃すことなく見届けなければ。
もちろんこれまでにも、同じ光景を見たことはある、というか何度も見てきているし、なんだったら、私自身も経験している。
しかし、今、この目の前の状況はありそうでなかった。
三人掛けの座席の両サイドには、ビシッとスーツを着こなした神経質そうな年配のサラリーマンと、真っ黒に日焼けした作業着姿の年配の男性、そして、そんな二人の真ん中に座ったのが、汗シミで黄ばんだよれよれのTシャツに、ショート過ぎるだろうとツッコミたくなるくたくたのズボンを履いた年配の男性、しかも長めの髪はぼさぼさで、べとついているように見えて、まさにこのクソ暑い時期、絶対に隣に座って欲しくない典型とも言える。
見れば見るほど、奇跡のキャスティングとしか言いようがない。
もちろん、ただの偶然だが、
「真実は小説よりも奇なり」
とは、まさにこのことなり。
「お前は首の座らない赤子か!!」
と、言いたくなるくらいに、その頭はピンボールの玉よろしく、スーツと作業着の間で、右に左にと動き、その都度、ふたりから弾き返されるのを繰り返している。
これだけでも、十分にうっとおしいのに、スーツと作業着は最初から、黄ばんだTシャツを快くおもっていないと、私は感じている。
真ん中の空いてる席に、黄ばんだTシャツが「ドスン」と音が聞こえてきそうな勢いで座った瞬間に、両サイドのふたりが同時に睨んだのを私は見逃してはいない。
スーツも作業着も見た目は普通で、いきなりキレたりしそうなタイプには見えない。
ふたりの共通点はそれだけではなく、服装に気を使っているということだ。
スーツはもちろんなのだが、作業着も着古した感はあるが、だらしなさは一切なく、毎日洗濯しているのは明らかだ。
そんなふたりだから、黄ばんだTシャツは、もう完全に論外であろう。
そんな不潔感満載なやつに触れられるなど・・・、
「私は耐えられない」
それはスーツと作業着も同じらしく、なるべく端の方に体をずらしている。
にもかかわらず、黄ばんだTシャツは容赦がない。
それもそのはず、黄ばんだTシャツは、一目でクタクタに疲れ切っているのが見て取れる。
だから、ドラえもんの、のび太も驚くほど早く眠りに落ちる。
結果、スーツと作業着の間でピンボール状態になる。
スーツと作業着の弾き返し方にも、変化が現れてきている。
最初のころは、軽く肩をゆする程度だったが、今は、完全にいら立ち交じりに、腕を上げて弾き返している。
「いいぞ、いいぞ」
観戦しているコチラからしたら、最高の展開である。
弾き返されるたびに、目を覚まし、頭を下げる黄ばんだTシャツだが、次の瞬間には眠りに落ちてしまい同じことを繰り返す。
もう、目を覚ましても、半分寝ている状態なのだろう。
こうなると、疲れからなのか、単純に睡眠不足なのか見当もつかないが、
「そんなことはどうでもいい」
この結末がどうなるか・・・、
最悪なのは、スーツと作業着が降りてしまう、または、席を移動してしまうの二パターンだ。
逆に最高なのは、ふたりがキレるパターンだ。
キレそうにない人がキレるのは見ものだ。
スーツも作業着も互いに被害者意識を共有しているとはいえ、相手に押し付けたい気持ちは少なからずあるだろう。
「自分さえよければ・・・」
そう考えるのは仕方がないことだ。
私の降車駅まで、残り二駅、この試合を最後まで見届けることができるか?
いや、見届けなければならない、もう、私は終点まで降りる気はない。
「心は決まった」
あとは、消化不良にならないように、スーツと作業着に期待するしかない。
・・・もう、後戻りはできない、降車駅を過ぎてしまった。
と、おもったら、何とスーツが席を立ち降りる気配。
「いやいやいや」
と、声に出そうになるも、引き留めるわけにもいかず、そのまま、スーツはあっけなく退場していく。
すると、あろうことか、黄ばんだTシャツが目をさまして、
「スーツの座っていた端の席に移動するではないか!!!」
これには、作業着が安堵の表情を浮かべる。
「ないないない」
そうじゃないだろう。
これでお終いなの?
わざわざ、乗り過ごした私の意気込みはどうしてくれる?
何ともあっけない幕切れで・・・と、おもったら、スーツと入れ替わりに乗車してきて、真ん中の席に座ろうとする兵が・・・、
「メスのカビゴンか?」
と、一瞬わが目を疑う。
目算で100Kgはゆうに超えているとおもわれる。
それくらいによく肥えている。
「天高く馬肥ゆる秋」
そんな言葉が頭に浮かぶが、ミスカビゴン(ミスサイゴンみたいw)が、席に座った瞬間、まるで押し出されるように、作業着と黄ばんだTシャツが席を立つ。
そりゃそうだ。
ミスカビゴンの体の面積は普通の人の1.5倍以上はあるのだから。
ミスカビゴンは悪びれる風もなく、平然と席を占領している。
そんなミスカビゴンに、冷ややかな視線を送るふたりだが、ミスカビゴンは杖を持っている。
白い杖ではない。
単純に自分の体重を支えられなくて杖に頼っているのだろう。
「仕方なし」
とあきらめたのか、ふたりは別の車両に移動していく。
残されたミスカビゴンは背負っていたリュックを隣の席に置いて、完全にほぼ三人掛けの座席を独占してしまう。
予想外の結末に、私は大満足で、
「グジョブ!」
と、心の中でミスカビゴンに賛辞を送る。
ただ、終点で降りようとした私の前に、ミスカビゴンが立ちはだかり、のろのろと杖をつきながら歩くのには、
「軽く殺意を覚えた」
本日のBGM: 絶命 / 神が残した夢を喰う。このBGMは、話の内容とは一切関係ありません。ただ、書いている時に聴いていた、というだけのことです


コメント